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『演劇タイムズ〜ニッポンの演劇はどう変わる?〜』より転載

〓〓ドラマティックな人々!〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
    子どもと親と市民の結び目〜進藤敬子さん
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進藤敬子(しんどう・けいこ)さんは、子どもと教育に関して埼玉県内で展開されているさまざまな市民運動の代表的な世話役、ネットワークの重要な
結び目の役を果たしていますが、その活動の根っこに豊かな演劇体験が生きているようです。

東京・足立区で中学校の国語科教員になり、演劇部を担当し、夜には舞台芸術学院に通って自分も演劇を学びながら、生徒たちを区の代表として
東京都大会にもたびたび出場させてやるほどでした。やがて、地元・埼玉に転勤し、今度は(旧)大宮市で近隣の中学校と一緒に大会を開いたり、
市民演劇祭に出場したりするなど、中学生の演劇活動に力を注いでいました。

かたわら、教員・市職員・学生らと共に大宮にアマチュア劇団を創り、拠点を作って活動していたのですが、演劇熱が昂じて、結局教員を退職して
しまいます。そして劇団レクラム舎の研究生を経て入団した劇団秘宝零番館(竹内銃一郎主宰)で、俳優・演出助手として舞台を創りました。

その後、1990年からは、おやこ劇場を活動の拠点にします。居住する久喜市に「おやこげきじょう」を設立したのを手始めに、活動は埼玉全県的な
立場に広がってきます。「彩・幸・祭(舞台芸術祭)」(2回)、「三世代フェスティバル」「子どもフォーラム」、久喜市の「表現フェスティバル」、
表現遊びの会「キャラ」など、次々に繰り広げられる活動の場の中心にいつも進藤さんの姿が見られます。

キーワードは子どもと表現です。これらの催しでは、子どもたちの舞台が必ず創られています。「彩・幸・祭」での『子どもの十字軍』(ブレヒト原作)の
上演、中学・高校生の創作表現のコーディネートなどです。

さらに、現在、毎月1回、久喜で「NPOハローハンディキャップ・タイム」の子どもたちと音楽活動を楽しんだり、夏には、大宮で「平和に生きるための
ことば&音」を開催し、音楽・演劇・詩の表現を創ったりしています。

このように、さまざまな場で子どもたちを応援し、親たちを世話し、表現活動の楽しさや表現する喜びに誘う− 。また、市民運動の世話役として多様な
立場の人たちをつなぎ、結びつける役割を務める− 。これらは、誰にでもできることではありません。演劇も市民運動も「自立と協働」という困難な
道の先に明るい光景が見えてくるものです。進藤さんは、このむずかしい道程を多くの人たちと手を取り合い、ときには先頭に立ち、ときには後ろから
みんなを励ましながら歩んでいます。

人柄に加え、演劇で培ったものでしょう。おおらかさが周りの人たちに安心感を与え、豊かな体験で裏打ちされた技法が信頼されているのです。

きょうもあちこちを飛び回って、カラカラと笑い声をあげながら、空気をやわらかくほぐしています。
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    演劇から学校教育へ、三十而立〜河本一也さん〜
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河本一也(かわもと・かずや)さんは、一昨年4月、33歳にして東京の小学校教員になりました。今年も、11月には5年生の子どもたちと学芸会の
劇づくりに取り組み、演劇の楽しさ、とくに集団で創る舞台(集団劇)のおもしろさを、子どもたちに感じさせてやれたのではないかと思っています。

集団劇のおもしろさ。それは、河本さんが20代に所属し、舞台に立っていたミュージカル劇団「ふるさとキャラバン」で体験し身につけた感覚です。
教員になった今、子どもたちにそれを知ってもらいたい、味わってほしいと考え、演劇活動に力を入れているのです。

河本さんの10代後半からのほぼ15年間は、演劇三昧の生活でした。

それは高校に入学して出会った落語研究会から始まりました。老人ホームなど学校の外にも積極的に出かけ、「東芝銀座セブン」を借りて
演じたこともあります。部費を稼ぐために職員室に出前したことも……。創作落語や一人コントのようなことがおもしろくなってきました。

演技の基礎を教えられ演劇をしっかり学んだのは、高校2年の時、毎週日曜に通うタレント養成所ででした。社会を知る“窓口”でもあったと、
当時を振り返ります。そこで認められて、CMやドラマなどテレビに出演するチャンスにも恵まれます。

大学は迷わず演劇学科を選びます。しかし、大学の授業に出るよりは、ミュージカルをやりたいと思っていました。演劇のなかでも、集団でやれる
舞台が好きだからです。柴田恭兵に憧れ、東京キッドブラザーズに入りたいと思っていた頃、たまたま見た「劇団ふるさときゃらばん」に心が動きます。
これだ!「舞台を見た人が明日もがんばろうと思ってくれるような」ミュージカル。迷わず、入団オーディションを受けて、合格したのです。

大学4年の時、母親の死。お母さんっ子だった河本さんは気持ちが沈み、生活に張りを失ってしまっていたのですが、それでもなんとか卒論は
『笠智衆』を書き上げ、卒業と同時にふるさときゃらばんの団員になり演劇が生活になったのです。もちろん舞台に立ちます。『男のロマン、
女のフマン』が最初の舞台でした。

しかし、俳優としてよりもっと学んだものは、24歳の頃、長野県に入った「制作」の仕事ででした。10人程でチームを組み、そのリーダーとして、
妥協の許されない緻密なワークが求められたのです。河本さんは、「それまでの一人よがり」に気づき、「一所懸命の大切さを今更のように」思ったと
述懐します。

そんな劇団を3年半で辞めたのは、ハードな活動で体を壊してしまったからです。それでも、心身に馴染んだ演劇は離れていきません。
アルバイトをしながら、演劇集団円や木冬社の研究生になって、自分なりに演劇を追求したのです。が、いかんせん、安定した収入に乏しく、
若いとはいえ生活は困難の底にありました。「夢やぶれ、南の島にでも行ってひっそりと暮らすのもいいか」と思うほどでした。もっとも、
河本さんにはそれでもどこか、困難を逆に生きる“ばね”にしてしまうような明るさやエネルギーを感じます。

失意の日、あるとき偶然目にした「通信教育で取れる教員免許」の文句。もともと子どもが好き。ならば教員もいいか。それが今の仕事の入り口でした。

教育の困難が言われる今日、河本さんのような生きざまに触れることは、子どもたちが「人間っておもしろい」「生きていることってすばらしい」と感じ、
人間や社会を複眼で見る助けになると思うのです……。
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   たんぼと梨畑と人形劇と〜黒田一夫さん〜
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四国・徳島平野は藍住町の専業農家、黒田一夫(くろだ・かずお)さんは今、稲の刈りとりと梨の収穫を終え、ほっとする間も惜しんで、
こんどは「人形劇団ごんべ」の主宰者に変身、徳島県下の子どもたちのために飛び回っています。

今からもう35年余りも前のこと。5代・6代と続く専業農家に、大学で農学部に籍を置きながら児童文化活動をしていた黒田さんが帰ってきました。
町の喫茶店に集まった若者たちの間で、ある日、「子どもたちのために、誰かが何かをしなければならないのなら、私たちは人形劇をしよう」と意気投合。
「人形劇をいつでもどこでもだれにでも」をモットーに、黒田さんたちは劇団をつくり、公演活動を始めました。1969年11月のことです。
その後、当時保育士をしていた智美さんと結婚。ともに、「農を生かし農で遊び楽しむ」という生き方を選んだのです。

こうして始めた人形劇。しかし当時は、遊びはイコール怠け、人形劇など仕事の妨げになると、周囲の理解を得るのは困難なことでした。
それでも若者たちの志は高く、次第に認められ信頼されるようになってきました。

なかでも二人の信念と絆は強く、ほかのメンバーが結婚やら仕事やらで止むなく抜けていくなか、米づくりと梨の世話の合間の活動は、
しっかりと根づいてきました。

今では、県内はもちろん四国各県のほか、遠く本州や九州にまで出かけるほどです。レパートリーは50を超えるまでになりました。
上演時間わずか5分の指づかい音楽ボードビル『はらぺこあおむし』から、智美さんと二人で演じる90分の大作『泣いた赤おに』まで。
そして、客席には幼児から老人まで迎えて、幅広い演目で楽しんでもらっています。

また、公演だけではありません。人形劇の裾野を広げたいと願い、舞台の製作や貸し出しなども惜しみません。
木製の「ごんべ型折たたみ差し込み式人形劇舞台」は運びやすく扱いやすいと好評で、県内の人形劇グループにも活用されています。

小学校の「総合学習」の時間にゲスト・ティーチャーとして招かれたこともあります。子どもたちが町のお年寄から聞いた民話をもとにした
脚本づくりに始まり、人形作りから校内の発表会、そして地域の保育所・幼稚園や老人ホームでの上演まで、
ほぼ1年を通して協力、指導に通いました。子どもや教師からの感謝の言葉に感激したこともありました。

さらに、藍住町の子どものための活動に広く関わっています。「藍住子育て環境づくり『あいっこ』」を町内3グループでつくり、この秋にも、
町に「どんぐりの森」をつくろうという「どんぐりまつり」を開いたり、メルヘンとファンタジーを届けようという企画グループ「子どもに夢を『メルファンの会』」の
中心として「藍住子ども劇場」と一緒に「劇団風の子九州」の公演に取り組むなど、精力的な毎日を送っています。

今、黒田さんの行動半径は大きく広がっています。鳴門教育大学の人形劇団や徳島大学人形劇部など、学生たちとの交流を行い、応援しています。
また、再来年(2007年)徳島県で開かれる第22回国民文化祭の人形劇部門の企画委員を務めています。

「子どもに夢を」と思って始めた人形劇、文化活動。黒田さん自身がまだまだ夢を広げているようです。
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バージョン・アップ! 故郷の子どもたちとふたたび〜遥川スミエさん
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「私は、みんなを置いて辞めていってしまうんじゃないんだよ。もっと勉強して、ここに戻ってきたら、また一緒に
やろうね。」

「日本のアンデルセン/口演童話の父」と呼ばれた久留島武彦に因み、毎年、全国童話祭を開いていることで
知られる大分県玖珠町。その町の小学校教員・遥川スミエ(はるかわ・すみえ)さんは、今春3月末、離任式も
そこそこに身仕度を整え、東京に向かいました。とある演劇研究所に入るためです。

と言っても、実のところ宿もなければ職も決めてありません。とりあえず、研究所の入所式に間に合うようにと上京し、
住まいと仕事を探すことと併行して、週3日の研究所通いが、早速始まったのです。

大学4年まで、バレーボールに打ち込み、キャプテンまで務めていながら、内気であまり自信のもてない自分の
存在価値を探す遥川さん。岡山で過ごす大学生活で、ひょいと演劇部をのぞいてみたことがきっかけでした。
これからの道が見えてきたのです。

バレーと併行して始めた演劇。3年の時、初めて脚本を書き、みずからも出演した舞台が近隣の小学校によばれます。「おもしろかった。よかったよ」と喜ばれ、次々にほかの学校からも招かれます。彼女のなかに、卒業後は演劇を
生かして、という気持ちが湧き起こってきました。

帰郷して小学校に勤めることになりました。教室やクラブで子どもたちのいきいきとする姿や劇を見た親たちの声を、
見たり聞いたりするにつけ、演劇への情熱がふたたび、しかも前にもまして強くなっている自分に気がつくのでした。
周囲の反対を押し切り、1年で学校をやめてピッコロ演劇研究所(兵庫県)に入る決心をします。基礎から学び直そう
というわけです。

ところが、あろうことかお母さんが50代の若さで癌に苦しんでいたのです。演劇の道に進みたい、でも母のそばに
いてあげたい。悩みながらも、1年間のピッコロ生活が終わると結局故郷に戻り小学校の教員になります。仕事と
看病の毎日。くたびれた心身を癒し、奮い立たせてくれたのは、やはり演劇でした。

町で催される「町民劇場」の舞台に立ったのです。それをお母さんが見に来てくれました。そして、娘の晴れ姿を
見届けたかのように、まもなく他界します。

母親を見送ってしまうと、山間の小さな町の引っ込み思案の子どもたちにも、表現する楽しさと演劇のおもしろさを
感じてほしいと、学校の仕事とは別に「演劇教室」を開くことにします。

幼児から中学生まで。協力的な親たち。そして公演の日、町のお客さんたちの大きな拍手をもらって、笑顔が
広がりました。客席には、遥川さんのおばあちゃんの姿もあります。そのおばあさんも、ほどなく、はりつめた糸が
切れるように天寿を全うしました。 

そして今春の退職、上京、研究所通い、となるわけです。大学を卒業して8年。今は亡きおかあさんは、実は
地域の「子ども劇場」運動に情熱を傾けていました。遺志を継ぎ、「母の生き方の証しを私がしているのだと思います」
と言う遥川さんの演劇と教育に懸ける情熱は、演劇と教育に架ける橋を作っているように見えます。

来年3月、研究所の卒業公演があります。それが終わったら、待っていてくれる故郷の子どもたちと、もっと
すばらしい劇づくりをまた一緒にしてみたい。でも、このままプロの道に進みたいという気持ちも心のどこかに……。
揺れながら、今日もレッスンと仕事に時間を振り分けて、休む暇もない東京生活を送っています。
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   公立高校に本格的な劇場を作った校長〜伊藤隆弘さん〜
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舞台の間口18m、奥行10m、客席数1400を擁する本格的な劇場が、広島市立舟入高校にあります。
校長を務められた伊藤隆弘(いとう・たかひろ)さんが在職中の1999年に建てられました。

照明・音響設備も整えられ、電動で天板が設えられると音楽ホールにも変わります。奈落は通路にもなりますが、
大道具や楽器を保管する場にもなっています。

学校のシンボル・アカシヤの木に因んで「あかしやホール」と名付けられた劇場は、地域に開放されて市民にも
利用されています。生徒の入・退場口とは別に、市民が外から出入りできるよう作られています。一般の劇団が
公演できる劇場なのです。

2年間の中学教員を経て、1963年、広島市立舟入高校に国語科教諭として着任した伊藤さんは、校長を務めて
1999年度を限りに退職されるまで、同校に勤務されました。そして、演劇部顧問として全国に知られる「舟入の劇」を
創り続けてきました。一貫してヒロシマとは何かを考え続け、ヒロシマの心を伝える創作劇です。

高校演劇全国大会で最優秀賞に輝いた『とうさんのチンチン電車』(1987年)や優秀賞に選ばれた『明日に舞う』
74年、『虎杖忌』77年、夜空を駈けろ!チンチン電車』82年、『おさん幻想』83年、等々40本に及ぶ伊藤作品が
ありますが、今夏もまた『女生徒(おとめら)の碑』が、舟入高校演劇部OBによる「劇団F」によって公演されています。

伊藤さんの「舟入の劇」は挫折からの出発でした。意気揚揚と出演した初めての全国大会(1969年/札幌)でしたが、
他の高校のほとんどは創作劇。カルチャーショックを受けたと言います。それではと、一念発起して次の中・四国大会で
上演した初めての創作劇 『白いキャンバス』に、こんどは審査員の中村俊一さん(劇団仲間代表)から、手厳しい
一言が放たれます。

「病魔の恐怖と闘いながら被爆二世としての自覚をもって生きようとする若者の姿を」描いた作品ですが、
「被害者意識を打ち出して共感が得られるのか?」という批評です。以来、中村さんが「壁」になります。
中村俊一に認められる作品を創ることが目標にもなります。

そしてようやく、「単にヒロシマを訴えるのでなく、ヒロシマの人間を描いてドラマとして成立している」と評価された
『明日に舞う』を74年に発表します。「被爆死した母の遺志を継ぎ日本舞踊に打ち込む被爆二世が峠三吉の詩の
創作舞踊に取り組む姿を」描いたものです。

「壁」にひるまず、なんとかなるという信念。継続は力なり。自分の世界を創ることは可能、あきらめない。 こんな言葉が飛び出てくる伊藤さんの、笑みを絶やさぬどこまでもおだやかな表情と声が印象的です。

被爆60年目のこの夏、NHK「ラジオ深夜便」は8月6日未明の時間に、伊藤さんは、国立広島原爆死没者追悼
平和祈念館の被爆体験記朗読ボランティアとして、活動する思いを語っていました。ヒロシマを胸に刻み、
その精神を演劇をとおして発信し続ける伊藤さん。この秋、爆心地のすぐそばにある本川小学校が創作音楽劇
を上演しますが、そのアドバイザーとして、孫のような子どもたちを励しています。

※市販の脚本集で読める伊藤隆弘作品
『男たちが消えた村』=「高校演劇戯曲選 18」(晩成書房)所収
『とうさんのチンチン電車』=「高校演劇セレクション90」(晩成書房)所収
『夜空を駈けろ!チンチン電車』=「高校演劇戯曲選 」所収
『あたら さくらの、・・・・』=「高校演劇セレクション2000・下」所収

    
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   地域で子育て、町に文化の風を!〜黒木至美さん〜
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“子どもたちの心が町中の人に届くように”
大きな七夕飾りが今、宮崎県都農町の役場前に置かれ、風に揺れてみんなの気持ちを和ませています。町内に
6つある小・中・高校の子どもたちの願いや思いが込められた七夕飾りは、子どもを見守る役職にある町の女性
14〜15人が、連日学校を訪ね、一緒に作ったものです。

この「七夕交流活動」で中心になっているのが、黒木至美(くろき・ゆきみ)さんです。黒木さんは、京都で小学校の
教員を務めていました。家族のつごうで、16年前に宮崎県に移住、教職は辞めましたが、以来、一町民として
子どもと文化に関わるさまざまな活動に参加しています。

教員時代には、子どもたちの文化活動に力を入れ、演劇をはじめさまざまな表現活動に取り組んできました。
そのためには、みずから体験し、力をつけていかなければなりません。演劇教育のセミナーや講座を求めて、
横浜やら東京やらにも出かけて学んできました。学生時代には演劇部を創り、一時は俳優の道を志したほどですが、
結局は教職に就いて「表現とコミュニケーション」の教育、文化・芸術に情熱を注ぐことになったのです。

この姿勢は、宮崎に移り住んでからも変わりません。こんどは、自分の町に演劇サークルをつくったり、講師を招いて
セミナーを開いたりするほどです。昨年亡くなられた俳優の冨田浩太郎さんの朗読講座などもそのひとつです。

町では保育所に勤めた後、現在は児童館で子どもたちと直接ふれあう仕事をしていますが、黒木さんの
ドラマティックなところは、子どもは地域が育てるという信条を行動で表しているところです。“人の親”として、
わが子だけでなく子どもたちみんなに温かい目を注いでいます。

その目でもって、親の立場で学校に提案し、歓迎され実現したことがいくつもあります。子どもたちへの本の
“読み聞かせ”はそのひとつで、今やすっかり見慣れた光景になっています。

また、卒業式や入学式と言えば、「日の丸・君が代」で処分されるというようなおよそふさわしくない事態が
憂慮されますが、主役の子どもたちはもちろんのこと、その場に集う人すべてが快く豊かな気持ちになれるような、
式場のレイアウトや進行のプログラムを提案し、喜ばれています。

黒木さんは、何かをすることで人と人が出会い、心がつながっていく喜びを感じると言います。そして、無理なく
人と関わる、自然体でいられる、楽に立っていられる− こういうことを、演劇教育のセミナーや講座で学び、
それが身に染み込んだと言います。

今、演劇人などもさかんに教育の分野に踏み込もうとしていますが、子どもの前に立つ場合、専門の技術も
さることながら、第一に求められるのはこういう資質ではないかと思います。

黒木さんと町の子どもたちは今、楽しい夢を見ています。遠くへは出かけられないお年寄りたちが寄り合う場に、
和太鼓とソーラン節の踊りを届ける“トラック隊”を結成してまわろう!というものです。この夏、子どもたちの
はつらつとした身体とお年寄りたちの笑顔が見られそうです。
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   高校球児、いま市民が和む文化会館館長さん〜関繁雄さん
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2002年にオープンした埼玉県の「富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ」の館長・関繁雄(せき・しげお)さんは、
かつて甲子園をめざす野球少年でした。関さんの代はもう一歩のところで出場を逃してしまいましたが、
2年後の母校は晴れて甲子園出場を果たしています。

さて、建築科で学んだ関さんは、卒業後地元の町役場に入り、その後市制に移行した富士見市職員として、
建築畑一筋に30年間を生きてきました。生まれ育ったわが町で、休日には少年野球の指導をするなど、
野球と郷土愛で充実した毎日を過ごしていました。

そんな日々が一変したのは、市民文化会館の建設が計画されてからです。東京・池袋から電車でわずか30分余り、
それまで、人口急増のベッドタウン・富士見市では学校建設が大きな仕事になっていましたが、10万人を超えて
ひとまず落ち着いた市の都市計画は、次に文化会館建設が現実の課題になったのです。

それは市民の夢でもありました。が、バブルが弾けて財政状態はけっして良くはありません。そんな中ですから、
会館は絶対に、市民に認知してもらう、市民に愛されるものでなければならないと強く思ったのです。関さんの
口から「市民」という言葉が頻繁に出てくるのが印象的です。

それからは、市内の公民館をまわり、市民の声を聴き、また理解を求めました。建設検討委員会、運営検討委員会、
開館記念事業実行委員会、と開館までの過程で市民の意見を真摯に受けとめ、反映させた文化会館は、
「学習と交流の場に」と願い、展示会議室も作られました。そこは、市民の創造・創作と表現の場として
毎日さまざまに利用されています。

また、演劇には関心も知識もまったくなかったという関さんですが、それからはこまつ座や二兎社などの舞台を観に、
積極的に出かけます。野球に明け暮れた少年時代とは言っても、地域に親しみ、地元の「城下組囃子」で
太鼓や踊りを自ら楽しんでいましたから、芸術表現に関わる素地はあったにちがいありません。

それが一気に花ひらくきっかけは、演出家・平田オリザさんとの出会いでした。会館建設の過程でたまたま
紹介された平田さんに、感じるところ、この人となら何かができる!というものがあったのです。

公共ホールの理念や使命を学び、子どもと老人が親しみやすくという考えにも共感を覚え、共鳴した関さんは、
富士見市とは縁もゆかりもない平田さんを芸術監督に迎えるのです。関さんの情熱とフェアプレーの精神の
賜物かもしれません。

平田さんを芸術監督とし、「私は現場監督」と自称する関さんが今、市内の商店と協力して、楽しみながら
進めている施策があります。文化会館の催しの宣伝をしてもらうのです。

すでに83店舗に快諾を得、店頭にポスターが貼られています。そしてできたら、入場券の「半券」でそのお店の
サービスを受けられるようにしようというものです。近いうちに実現するかもしれません。

「館長、良かったよ!」と言ってもらえるのが最高の気分という関さん。「キラリスト」と名付けられた
市民ボランティアのみなさんと一緒に、今日も和やかにお客さんを迎えています。
    
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   演劇で伝える「生きる力」 〜小野川洲雄さん〜
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この3月末で東京・文京区の中学校長を退職された小野川洲雄(おのがわ・くにお)さんは、今年も文京区内の
中学生の演劇サークルで指導されています。これは、文京区が学校週5日制に伴って2002年度に始めた
「ふれあい劇づくり土曜教室」と名付けた企画で、小野川さんは在職中から毎週土曜日の午前中、文京区
教育センターで、仕事とは別に中学生の演劇活動を支援しているのです。

4月に区の広報で募集し、集まった区内の中学11校の1〜3年生、合わせて十数名です。遊びやら
エクササイズやら体を動かして、みんなが仲良くなれるようなことから始め、来年1月末の上演をめざしています。
劇づくりをとおして表現とコミュニケーションの感覚を身につけてほしいというわけです。

小野川さんは、技術家庭科を教えるかたわら、演劇部の顧問として長年務めてきました。校長に就いてからは
東京都中学校演劇教育研究会や全国中学校文化連盟の会長として、広く目配りをする立場で活動してきました。

そもそも小野川さんの演劇活動は、東京学芸大学在学中に始まりますが、やがてその卒業生がつくっている
「教師の劇団 創芸」に参加します。1939年に結成されて以来、代々の卒業生が参加して、現在も公演活動を
続けている劇団です。小野川さんはその中心的な存在として、脚本を書いたり演出をしたりしてきています。
『皇国の訓導たち』3部作(1973〜75年)は、「教え子を再び戦場に送るな」と決意した教師たちが、深い反省と
自戒を胸に刻んで演じられた舞台でした。

劇団は今、『グッド・バイ・マイ…』という小野川さんの作品に取り組んでいます。もともとは中学生向きに書かれた
脚本で、1980年に発表されるや大きな反響を呼び、四半世紀を経た今日に至るまで全国各地で多くの中学生や
高校生らが上演しています。

この作品は、人がこの世に生を享ける前、つまり母親の胎内を舞台にしています。すべての子どもが、生まれ出る
社会に限りない夢と希望をもって産声をあげる……はず。しかし、青太、黄郎、緑、桃子の4人は、自分の未来が
やがて挫折に見舞われるということを、ふしぎな老人に告げられてしまう。黄郎は片腕をなくすという。
それでも「誕生の門」をくぐって生まれ出ていくのだろうか?− 

さて、ある年、小野川さんに届いた1本の便りは、作者の思いを超える深い感動的なものでした。
盲学校教員からの手紙です。

春の一日、「生命」がテーマの理科の授業。芝生に車座になった生徒たちにこの脚本を読んでやったところ、
秋の文化祭でその目の見えない高校生たちが上演したというのです。しかも、その後、生きる意志をあらためて
胸に刻んだという桃子役の女生徒から、便箋十数枚におよぶ手紙がきます。

緑を演じた友だちが病床にある苦しみや悩みを告げるものです。小野川さんは突き動かされるように新幹線で
病院に向かったのでした。級友や先生、小野川さんの祈りも空しく、半年後に亡くなってしまうのですが……。

この脚本以外にも、友情と打算の間で揺れる心情を描いた『メロスは走らない!?』、みんなが嫌がる運動会の
長距離走にだれが出るかで学級がもめる『棄権』、等々、中学生が日常のなかでぶつかるさまざまな悩み、
リアルな問題を、詩情豊かな作風におさめて興趣を誘っています。

現代の中学生・高校生に、演劇によってしっかりと向きあう小野川さんの姿勢は、教育をめぐって右往左往している
社会にキラリと光っているように見えます。

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「文化・芸術は平和のためにこそ」生涯をかける〜畑野稔さん〜
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愛媛県文化協会の理事・畑野稔(はたの・みのる)さん。もともとは教員で高校演劇の指導者の畑野さんですが、
今やその枠には到底納まらない多くの顔をもっています。

この1年間をとってみても、高校演劇の指導、劇団こじか座の活動、子ども演劇ワークショップの実施、
「人権啓発劇」への協力などの演劇活動のほか、憲法や平和に関わる、実にさまざまな場で活躍されているのです。

高校演劇では、勤務する学校が四国地区大会で2位になり、四国代表として春期全国高校演劇フェスティバルに出場、去る3月29日に東京・劇団四季自由劇場で上演しました。

一昨年度は、夏の全国高校演劇大会の審査員・講師を務めていますが、孫のような年齢の高校生たちの
部活動にも目を配っているのです。

劇団こじか座は、来年創立50年を迎えるという、全国でもめずらしい、子どもが参加する地域劇団です。
子どもたちが、学校とは別に地域で演劇にふれられるようにと創られたものですが、現在は小学3年生から、
最高齢は79歳まで、文字どおり老若男女が一緒に活動しています。

毎年、本公演と呼ぶ松山市民会館ホールでの公演、劇団創作の民話劇をもって児童福祉施設や老人ホームなどを
訪ねる巡回公演を行っていますが、この1年でも5か所で上演し、大勢の子どもやお年寄りに楽しんでもらいました。

子ども演劇ワークショップは、宇和島親子劇場ほかの主催で「遊びで考えるからだ・こころ・ことば」というテーマのもと、約50人の子どもと父母が参加して実施されました。また、松山市でも同じようなものが実施されています。

松山市が力を入れている「人権啓発劇」の活動は、市内の各小・中学校で創られた脚本を尊重しながら、
ややもすれば道徳的なお説教になりがちなものを、ドラマとしてのおもしろさを子どもたちが体験できるように、
演劇教育の視点からアドバイスを送る指導者として各校を廻っています。

畑野さんは現在、冒頭の愛媛県文化協会や松山市文化協会の理事など、公的な任務として舞台芸術全般に
責任をもつ立場にあり、その振興に務めています。オペラに関心を寄せる知事のもと実施された県民オペラの
実行委員としても東奔西走しています。

愛媛演劇集団協議会や「松山の文化をはぐくむ会」の会長も長年務めています。加えて、昨年から今年にかけては、
憲法や平和の問題がクローズアップされていますが、その方面でも「憲法九条を守る愛媛県民の会」代表幹事、
「松山市に平和資料館をつくる市民の会」会長など、7つの会のリーダーを務めるなど本当に精力的です。

このようにバイタリティあふれる畑野さんの活動ですが、その原点は「敗戦」にありました。
戦後、予科練から戻って人間観が 180度の転換をしたのです。

今の高校1年生に当たる年の頃だったでしょうか。古代ギリシャの美のように、美しいものは一貫して美しい、
そんな美へのあこがれや目覚めが芸術に結びついたと言うのです。そして、総合芸術としての演劇に……。

旧制師範学校から新制大学の教育学部へ進んだ畑野さんにとって、教育とは、子どもたちが文化・芸術に親しみ、
平和を築くための営みそのものなのです。「平和のための教育」「平和のための芸術」に生きる人の真骨頂を
見る思いです。
〓〓ドラマティックな人々!〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
   「世界」と子どもたちを演劇で結ぶ〜倉原房子さん〜
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英語の通訳や翻訳をしている倉原房子(くらはら・ふさこ)さんが、オーストラリアの劇作家、デビッド・ホールマンさん
に出会ったのは、1987年にオーストラリアのアデレードで開かれた国際児童・青少年演劇協会(ASSITEJ=アシテジ)
の世界大会で初めて見た舞台がきっかけでした。

おとなの俳優が、いかにも子どもらしい格好をしたり口振りをしたりするのではなく、シンプルな舞台美術と子どもの
心理や表情を表す自然な演技に感じ入り、腑に落ちたのです。

同行した俳優の伊藤巴子さん(前、日本児童・青少年演劇劇団協議会代表)と思わず顔を見合わせうなずきあう
ほどの、一種のカルチャー・ショックでした。『ちいさなけしの花』『だいじょうぶ』などたてつづけに見たどれもが、
日本で見慣れた子ども向けの演劇とは別のものだったと言います。

この2作品は、すぐに翻訳の許可を得て、その後、伊藤さんが所属していた「劇団仲間」で上演されています。
ヒロシマを題材にした『すすむの話』も、翻訳されて日本の劇団で上演されています。

倉原さんは、イギリスだけでなく世界各地の舞台を見て歩き、これは!と思うものを日本に紹介しています。
スウェーデン、フィンランド、デンマークなどの北欧やオーストラリアなどの児童・青少年演劇です。

その活動のユニークで貴重なことは、単に劇団や作品を紹介しているというだけでなく、それらの国の青少年と
日本の青少年を出会わせ、結ぶという役割も果たしていることです。

たとえば、宮崎県木城町・えほんの郷にイギリスから招いたクルーシブル劇団の「ユースシアター」は、
10代から20代初めの青少年のグループですが、2000〜01年には日本の青少年と一緒にワークショップを行いました。

また、『はだしのゲン』(中沢啓治原作、鈴木龍男脚本)を英語版にし、クルーシブル・ユースシアターに提供して
イギリスで上演されたのは1996年のことです。さらに、スリランカの青年たちの『はだしのゲン』上演にも積極的に
協力・応援しています。昨年は、フィンランドの劇団と青少年オーケストラが『セロ弾きのゴーシュ』を上演するのに
協力しました。

倉原さんが自分の目で見て、日本に紹介したいという舞台の基準ははっきりしています。俳優と演出家が対等な
関係のなかで一緒に話し合いながら進める舞台づくり、一人がいくつもの役をつとめる劇づくりは、俳優の演技の
勉強にもなるという考え方をもっています。

また、舞台と客席の一体感を醸し出す要因として観客数が 100人を超えないこと。スウェーデンから来日した
劇団ウンガリクスの『小さな紳士の話』なども、三方から見る舞台と客席にほどよい緊張感の漂う空間のなかで、
楽しめるものでした。

倉原さんの審美眼は、日本の児童・青少年演劇に対する厳しさにも表れますが、とりわけ強調するのは「想像力」です。想像力は観客への、子どもへの信頼です。ついつい説明過剰になりがちな、あるいはテーマをもって説得や
お説教をしようとしがちな作品が気になる、日本の児童・青少年演劇ですから。

デビッド・ホールマンさんが『ブレーメンの音楽隊』を翻案した日本未公開の脚本は、『いっしょにいこうよ』と訳され、
近々見られるかもしれません。楽しみに待ちたいと思います。
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   仕事と児童演劇の38年間〜古内亨さん〜
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福島県いわき市で、19歳の時から38年間、仕事の合間を縫って演劇活動を続けている会社員の
古内亨(ふるうち・とおる)さんに、このたび、全国児童青少年演劇協議会(全児演)の特別賞が贈られました。
全児演は、プロであれアマであれ児童青少年演劇に関わる劇団・団体・個人、だれでも入れる会です。
毎年、会員を対象に賞を贈っているのですが、今年度は「特別賞」として古内さんを選んだのです。

古内さんは、1966年、「いわき児童劇団ポポ」の旗揚げに参加して以来、現在まで役者として、時には
演出を担当して、公演に関わってきました。主に、市内の保育所を巡演しています。子どもを観客にして
演じるいわゆる児童青少年演劇の、プロの劇団はたくさんあります。

が、「ポポ」のように、アマチュア劇団として子どもに向けて上演している劇団は、そう多くはありません。
しかも、プロ劇団とは別の苦労や困難さがあるでしょうに、10年以上も続けているのですから……。
そうやって、地域の子どもたちが舞台を楽しみ、演劇に親しむ環境づくりに貢献しているわけです。

では、古内さんは、そもそもいったいいつごろから演劇を?「小学校の4年でした」と即座に答が返ってきました。
担任の先生がよく本を読んでくれたり、学芸会などなにかといえば放送劇や劇をやったりすることが多かったのです。
おかげで、引っ込み思案の古内さんも、「思いを身体で表現できる」劇にひかれたと言うのです。

長じて、地元の演劇鑑賞会(当時は「労演」)に入りました。事務局を引き受けたこともありました。
観ることに親しんでいたのです。が、あるとき、自分たちも舞台に立とうということになってしまいます。
しかも、それは子どもを観客とする演劇=児童演劇でした。仲間のなかに小学校の教員(今も劇団の
代表を務める牧野隆三さん)がいて、誘われるままに劇団旗揚げにまで至ってしまったのでした。

しかし、演劇が、ある種のイデオロギーと結びつけて、偏見の目で見られていた時代もありました。
古内さんも舞台に立つときは本名を名乗れず、会社も転々と変らざるを得なかったのです。それでも
演劇の魅力と、目の前で夢中になって見ている小さな子どもたちのことを思うと、やめるわけにはいきませんでした。

そうして今では、あたりまえですが、周囲の目も変ってきています。ますます精力的に仕事と公演を行っています。
学校や公民館の催しで上演することもよくあります。今年度も3月末までに市内24箇所の保育所を訪問し、
民話劇『うぐいすの屁』などで子どもたちを喜ばせています。

それとともに、子どもに対しておとなとしての責任を感じると言います。「親が手をかけすぎたり、反対に、
かけなさすぎたり」の時代、親子の共通の話題になる演劇をこれからも続けたいと思っています。

でも、平日に休暇をとってまでの演劇活動は家族にはどんな……?要らぬ気遣いのようでした。
お連れ合いは保育士さん。どうやら一番の理解者・協力者のようです。
〓〓ドラマティックな人々!〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
    演劇が生きる親子のふれあい〜中谷安子さん〜
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大学で演劇を専攻した中谷安子(なかたに・やすこ)さんは、今、子どもたち、とり
わけ、乳幼児やハンデのある子どもたちと、そしてその親たちと、豊かなふれあ
い・表現活動の場をつくっています。

演劇科で、日本舞踊からシェイクスピアまで、クラシックバレエからマイムまで、演
劇全般にわたり学んだ中谷さんは、卒業後、舞台にも立ちましたが、やがて子育
てに専念することにし、活動から遠ざかっていきました。

その子育てのなかで、自分の子ども時代の体験が蘇ってきたことが、こんどはわが子
だけではなく、親子のふれあい・表現活動を地域で展開するきっかけになりました。

テレビで「宝塚」を楽しんでいた少女期。中学生の時に上級生の嫌がらせにあい、
辛い思いをした中谷さんが、自分を見失わなかったのは、大阪放送児童劇団での
活動があったからでした。ありのままの自分を受け入れてくれた先生や友だちに支
えられ、学校生活の不安を乗り越えることができたのです。

この「学校外の活動に支えられた」体験が、現在の地域活動の原点になっていると
言います。

そして―――。
10年余り前のある日、住まいのある東京・世田谷で、学童クラブに指導に招かれ、
そこで障碍のある子どもたちと出会います。中谷さんは、身につけた演劇感覚や技
法を生かし、その子どもたちとのふれあいが生まれます。そこで、もっと多くの子ど
もたちと、日常的なふれあいの場「表現遊びの会ラ・ペ」を開くことにしたのです。

毎週、地域の公民館で、会は開かれました。その会は、転居とともに閉じてしまった
のですが、それとは別に現在も、1歳半から入園前までの幼い子に、親も一緒に入っ
てもらって表現教室(子育てサークル)を行っています。親子でふれあうやわらかな
遊び、リズム遊び、絵本を一緒に見たり読んでやったり……。

それらの活動には、「根っこは同じ。表現するからだになってほしい」という中谷さ
んの基本的な考えがあります。乳幼児期に親子がたっぷりとふれあい、信頼感を身
に染み込ませることが、今日なにかと取り沙汰されている「子どもの心を育てる」こ
とになると中谷さんは考えているのです。

今、演劇の心得のある人たちが、それぞれ、既存の場を活かしたり自ら設けたりし
て、子どもと言わず高齢者と言わず、さまざまな人々に体験の機会を提供しているこ
とは、基本的には意義あることと思います。そういう演劇教室なり演劇ワークショッ
プなりが全国的に広がっていますが、演劇がすべての人の日常にあたりまえに見ら
れる社会にするためには、幼い時から演劇に親しむ環境をつくることが求められま
す。そのためにも、片手間にではなく指導に当たれる人がもっと必要になってくるで
しょう。

中谷さんは、最近、「保育士」の資格も取得しました。「好奇心と無鉄砲で…」と笑
いますが、演劇と保育・教育を結ぶ専門的な人が増えることは、とてもうれしいこ
とです。
 
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    演劇は人生と民主主義の学校〜植原俊子さん〜
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群馬県高崎市。10年続く「ドラマスクール」で子どもたちを指導する植原俊子(うえ
はら・としこ)さんの人生も、相当にドラマティックです。

中学・高校生の頃はバレーボール部の選手だった植原さんは、法学部に進んだ大学
で演劇部に入り、そこで「民主主義」に気づかされたと言います。先輩の意見や指示
をただ待っているのではなく、自分の考えはどうなの?自分はどうするの?と促さ
れ、それは、人が対等な関係に在るとはどういうことかを考える初めての体験でし
た。さらに、演劇がもつ力−現状を打破し、人間の生き方や未来の社会を模索す
る可能性に魅せられたのです。

卒業後、演劇とは離れます。OL生活で出勤拒否の気分を味わうなどの「挫折」を体
験しながら、やがて結婚。わが子が4歳のとき、知り合いに言われるままに地域の
「子ども劇場」に入会、演劇が戻ってきました。

いつしかそこでは、子どもたちは劇を観るだけではなく自分たちもやってみようと
いうことになり、植原さんはその指導者になります。その指導は、いかに見栄えの
いい舞台をつくるかに頭が働きます。

そんなある年の上演、ふだん声がほとんど出てない一人の女の子が、よりによって
「主役級の役」をやりたいと親に告げたというのです。不向きの旨を遠回しに言いな
がらも、結局、その子が見事にやりとげるのですが、子どもにとって劇をやることに
はどんな意義があるのか、このとき気づいたのです。

誰のための演劇活動かを考えます。いかに見せるかということよりも、その子にと
っての意義を、より深く考えるようになります。

同じ頃、おとなになったわが子の一言も植原さんの胸をうちます。外でのいろんな
活動をするために、家のこともそつなくこなしていたつもりだったのに、「形をつ
くっていただけだったのだろうか、子どもをきちんと見ていなかったのではない
か?」と、また挫折感を味わいます。

そんなこんなが大きな転機でした。それからの「ドラマスクール」では、一人ひと
りの子どもに目を向ける気持ちの余裕が生まれてきたかもしれません。「人前で歌
えるようになった」「恥ずかしくなくなった」という子どもたちの声を聞いたり、ことば
に障碍をもつ子の親が、同じ立場の親たちに演劇の効き目を話していることを
聞いたりすると、続けてきてよかったなと思います。

そして今年も、春休み中の上演に向けて、お正月早々、稽古に熱がこもっています。
演技をときどき止めて、子どものアイデアに耳を傾け一緒に考えたり、自ら舞台に
上がりお休みの子の代役を演じたりしています。その光景がとても自然です。

家庭生活では、106歳になられるおばあさんや高齢の親御さんの介護も含め、主婦と
して働きながら、小学校のカウンセラーとして子どもの心を想いやったり、公民館の
「家庭教育学級」の講師として母親たちと向き合ったりしています。

植原さんは今、子どもたちのありのままを受け容れるということに留まっていない
で、どう生きようとしていくのか、おとながもっと積極的に指標を示すべきではない
かと考えています。どう生きるべきか、子どもも親も一緒に考えようというのです。

子ども社会にリーダーがいなくなった、子ども同士のコミュニケーションをつくるの
が難しくなったように見える植原さんにとっても、「ドラマスクール」の意義はます
ます大きくなっているようです。

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   “はは”から“ばば”へ、いつも子どもと演劇を!
        〜佐久間千代子さん〜
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今、全国におよそ19,000のNPO法人があります。11月末に発足した千葉県袖ヶ浦市
の「子どもるーぷ袖ヶ浦」は、おそらくその最も新しい団体のひとつでしょう。これ
まで13年間続いた袖ヶ浦おやこ劇場を発展・継承させたものです。

子どもが育っていく社会環境を、地域であらためて整備していこうというこの「るー
ぷ」で、毎月1回、5〜10歳の子どもたちを迎え、「劇ってあそぼう」と名づけた表
現活動をみずからも行うなど、アドバイザー的存在を果たしているのが佐久間千代子
(さくま・ちよこ)さんです。

佐久間さんは今から22年前、子どもたちが放課後やお休みの日に活動する演劇サーク
ル「袖ヶ浦児童演劇サークル《円》」を旗揚げしました。円(まどか)のような、地
域の子どもたちの演劇活動グループは、全国的に見ても当時はとてもめずらしい存在
でした。佐久間さんは、まだ小学校低学年だった“わが子”も一緒に、町民会館(当
時は町制)を借りて表現あそびや劇あそびを子どもたちと楽しみながら、毎年1回、
劇上演まで行っていました。

1989年には、東京・神田一ツ橋の日本教育会館で開かれた第38回全国演劇教育研究集
会(日本演劇教育連盟主催)でも上演し、大きな話題を集めたものです。なにしろ、
毎年のこの集会での劇は都内近隣の小学校や中学校が出演するのが通例でしたから。

この間、各種の講座や研究会に積極的に参加して、子どもの演劇活動の意義や指導法
について学んだり、劇あそびや演技などの体験を重ねてきたりしました。

さて、このように子どもの演劇活動を主として、佐久間さんは袖ヶ浦おやこ劇場や学
童保育所の設立に中心的に関わるほか、木更津ケーブル・テレビの民話制作、木更津
コミュニティラジオのコメンテーターを務めるなど、子どもを大事にした町づくり、
地域文化の向上に精力的に励んできました。

そんな活動が信頼され、2001年の市政施行10周年記念市民ミュージカルでは、『サウ
ンド・オブ・ミュージック』の脚本・演出を担当しました。上演当日、市教育委員会
の課長さんが会場を見回し、「いつもの客層と違うな」とつぶやいていた言葉が印象
的です。それだけ、この舞台が多様な市民をひきつけていたということでしょう。

その後、袖ヶ浦ミュージカルアカデミーを設立して(2002年)事務局長を務めなが
ら、脚本・演出・演技指導にもあたり、子どもを含む市民ミュージカルの活動を展開
しています。また、今年は佐倉市制施行50周年記念事業の「佐倉ミュージカルパ
フォーマンス」からも依頼され、何度も通いながら協力をしてきました。

さらには、袖ヶ浦市民会館の調光係として、市内の文化団体や高齢者教室、幼稚園な
どのさまざまな舞台発表会に照明ボランティアを務め、そのボランティア精神を惜し
みなく注いでいます。

愛情のまなざしが、“わが子”から“孫”に変っても、地域の子どもたちを見つめる
目の温かさは少しも変りません。あふれるほどの愛情を子どもたちに注ぎ、演劇や文
化を身近に感じられるまちづくりをと、歩き続けています。

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  劇で平和の“玉結び”をつくる〜宮城淳さん〜
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沖縄本島・宜野湾市の米軍ヘリコプター墜落事件のことは、被害を受けた地元の人た
ちや我が事として心を痛める沖縄県民の心情を置き去りにしたまま、全国的な大きな
メディアからはすっかり忘れ去られています。次から次へと起きる毎日のできごとの
ひとつとしてニュースにはなりますが、ほどなく通り過ぎていきます。

  その沖縄で、戦争のことは50年経とうが 100年経とうがけっして忘れてはならない、
いつまでもいつまでも心に刻み、語り継ぎ、どこまでも平和を求め続けようという教
育を、演劇をとおして実践している人たちがいます。

  宮城淳(みやぎ・じゅん)さんはその中心的な一人です。勤務する小学校で毎年、自
作の脚本で子どもたちの劇上演を指導し、沖縄戦をひもとき、ひいては現在の世界に
目を向け、平和のことを考えよう、戦下の人々に想いをやろうという実践を行ってい
ます。
  加えて1996年、6月23日の「慰霊の日」にあわせて「基地を劇で取り囲もう!」と、
どこの学校でも劇をやることを宮城さんは呼びかけました。これに呼応して8校が上
演、それから毎年いくつもの小学校で、この日の前後に行われています。

  1985年の『ガマの中で』以来、脚本創作を続け、それらは子どもたちによって上演さ
れているだけでなく、職員を巻き込んで全校で上演された作品もあります。また、学
童疎開の悲劇を疑似体験する『対馬丸』のような、体育館全体を船に見立てた舞台な
ど、さまざまな作品があります。

  そもそもは、かつて、元・ひめゆり学徒の宮城喜久子さんと同じ学年を担当したとき
に、沖縄戦をテーマに学芸会で劇をやったことから始まります。

  子どもたちの演技はそれほど満足できるものではなかったにもかかわらず、客席で涙
を流しているおじいさんやおばあさんの姿を目のあたりにして、子どもたちは何かを
感じ、宮城さんは劇の意義を考えることができたと言います。劇は観る人たちと演じ
る者が一緒になってつくるもの。お年寄りたちの体験は演劇によって世代を超え、伝
えることができるのだ、と……。「そういう形の伝承があるのだ」と……。

  しかし、そういう劇をやったからといって、戦争や平和についての子どもたちの考え
が明日から変わるというものではないということも承知されています。宮城さんは、
平和教育は、縫いものをするときにつくる糸の玉結びのようなものだと言います。子
どもたちが将来、戦争の気分に流されそうになったとき、「ちょっと引っかかって、
おや待てよと思ってくれればいい」と言います。

  最近は若い教職員と朗読劇を創ることにも力を入れています。昨年は『あきらめな
い……』(渡辺えり子)を、今年は『日本は、本当に平和憲法を捨てるのですか?』
(ダグラス・ラミス)や『あたらしい憲法のはなし』などを構成して、舞台を創りま した。

  アラゴンの詩のように「教えるとはともに未来を語ること」だとするならば、世界に
視野を広げ、現実に起きていることに目を向けながら、自分たちの将来・未来を考え
ようということは教育のあるべき姿と言えるでしょう。平和も教育もなにやら雲行き
怪しい今、宮城さんの「平和教育=玉結び」論には、しなやかな精神と強い意志が感
じられます。

宮城淳さんのホーム・ページ http://www.geocities.jp/ryrdf746/
                   (文・日本演劇教育連盟・市橋久生)

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   舞台で育つ、子どものこころ〜武内裕子さん〜
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「新潟歌舞伎みなと座」という、めずらしい市民歌舞伎一座がつくられたのは1999年
のことです。新潟市民芸術文化会館「りゅーとぴあ」の開館プレ事業として行われた
「舞台創造ワークショップ」に参加した市民が中心になって、2000年1月に旗揚げ公
演に漕ぎ着けました(「伽羅先代萩」後日談『老後の政岡』)。

以来、時代物、廓物、武家物などいろいろな演目に挑戦し、今年の2月には、5回目
の公演として世話物『新版歌祭文 野崎村』(通称「お染久松」)を成功させまし
た。歌舞伎界からプロの協力を得ながら、新潟にも歌舞伎のおもしろさをと精進を続 けています。

また、この秋・9月からは「おもしろ!歌舞伎体験子ども教室」を25回にわたって開
催します。子どもたちが伝統芸術を体験する機会として今春3月に初めて実施したも
ので、その2回目となりますす。発表会(上演)も予定していますが、一味も二味も
ちがう演劇に子どもたちはおおいに興味を示すようです。

この市民歌舞伎を推進する中心が、みなと座代表の武内裕子(たけうち・ゆうこ)さ
んです。それまで長い間、子ども劇場おやこ劇場で、やはり中心的な役割を果たして
きました。

さて、武内さんの今のもう一つの活動の場は、理事長を務めるNPO法人「キッズ・
ユニファー」です。これは、子どもを主とした市民参加の演劇制作に関わる活動で
す。 「私は『演劇は人間を育てる』ことをこの目で見てきた証人」と語る武内さんは、子
どもたちに、劇は観ることとともに、みずから演じることの意義やおもしろさを味わ
わせてやりたいと考えています。

現在、見附市で展開している「みつけ演劇セミナー」は、1998年春、市中央公民館の
文化事業として発足したもので、その後毎年4月に子どもたちが演じる舞台を創って
います。今年の第5回公演『雨上がりのおくりもの』は、キッズ・ユニファーの貴山
養一さん作、武内演出の創作劇。子どもたちに得体の知れないこわいものと噂される
マジョールに「会ってみたい」と言い出し、からかわれる少女あかねの心の成長を描 いたもの。

小学1年生から高校2年生までの21人とおとな4人が舞台に立ちましたが、近隣の長
岡市から親子3人で出演する家族もいました。また、なかには自閉症やADHD(注
意欠陥多動性障害)などハンディのある子もいます。親たちにも、得意な分野で無理
のないように楽しく関わってもらおうと、大道具や衣裳製作など、裏方で協力しても
らっています。子どもたちは、親や地域のおとなたちに支えられていることを感じな
がら、稽古に励んでいます。

「子どもは心がひらかれないと体も解放されない」ということを実感しながら武内さ
んは子どもたちと接しています。演技に行き詰まっている時には「こういう時ってど
んな気持ちになる?」と、子どもの心をほぐします。「役を演じるというより役を通
じて自分を表現する」ことをたいせつにしたいと考えています。

見附市に限らず、各地で学校外の演劇活動がずいぶん見られるようになってきまし
た。企画や指導をするおとなには、広い視野と子どもへの信頼が欠かせません。ある
保護者の感想が新聞に載っています。

「学校へは行きしぶるときもあるけど、演劇セミナーへは喜々として出掛ける」
(五十嵐佐一/新潟日報/5月4日)。 武内さんはそんな指導者の一人です。
新潟歌舞伎みなと座&NPO法人キッズ・ユニファー
 連絡先 電話 025−269−5959 FAX 025−269−1077 MAIL Kids-uni@lapis.plala.or.jp
                         (文・日本演劇教育連盟・市橋久生)
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   ろう教育に演劇の種をまく〜青木淑子さん〜
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福島県の高校教員・青木淑子(あおき・よしこ)さんは、耳の聞こえない子どもたち
の演劇教育に力を注いでいます。

「デフ・パペットシアター・ひとみ」や「日本ろう者劇団」のように高く評価されて
いる人形劇団や劇団もありますが、小・中学生や高校生など、難聴や聾(ろう)の子
どもたちの演劇やダンスなどの表現活動も、盛んに行われています。

この8月2日には、日本演劇教育連盟主催の第53回全国演劇教育研究集会で、都立石
神井ろう学校高等部の生徒たちによるダンス・パフォーマンスがオープニングを飾り
ます。1月に開かれた東京都盲・ろう・養護学校総合文化祭の舞台発表部門でも、胸
を張り手足を伸ばし、まっすぐな視線の、若者らしいしなやかな身体の動きが、観客
に熱い心を湧き起こさせたものです。

さて、青木さんは福島県立ろう学校に勤めていた15年間、生徒たちの心をひらき他者
への積極的な関わりを促そうと、演劇教育に情熱を燃やしました。

「劇にするような “自分”なんか何もないよ!」と、あまり意欲的になれない生徒たちを、根気強く、
考えさせたり励ましたり時に挑発したりしながら、徐々に、実は「表現したい自分自
身」があるのだということに気づかせていったのです。

難聴や聾の子どもの劇の場合、観客にわかるようにと、正面を向いた演技や字幕の多
用に頼りがちですが、そういう「説明」よりも、今この自分たちがこれをアピールし
たいのだというメッセージを全身で表す舞台でした。

ややもすれば交友世界が狭くなりがちなろう学校の生徒たちに、さまざまな人々との
出会いをと、プロの演出家や俳優、ダンサーなどに直接教えてもらう機会もつくりま した。
 そうして、生徒たちを高校演劇コンクールに出場させました。演劇部のコン
クールであるこの催しに、国語の授業として行っている劇であえて「挑戦」したので
す。果たして、県代表に選ばれ東北ブロック大会で上演する栄誉もしばしばでした。
生徒たちはたしかに変貌を見せました。同年代の健聴の高校生たちの心を打ち、対等
なコミュニケーションを自分たちの力でつくっていったのです。
「ナイーブ10」と自分たちで名づけた高等部3年生10人の創作劇の記録『いま静かに
燃えて』は、雑誌『演劇と教育』で連載が始まるや驚きと深い感動を呼びました。こ
の劇は有志によって東京にも招かれ、高校演劇とは別の多くの人たちにも見てもらう
ことができました。

青木さんはテレビでも取り上げられ、テレビ東京放映「ドキュメント人間劇場」で
『みちのくのサリバン先生』として紹介されています。

このような実践に刺激され触発されたかのように、あちこちのろう学校で演劇活動が
行われるようになりました。しかし、教員のせっかくの意欲も、子どもたちの心が全
身で表現されるような舞台がそう簡単につくれるわけではありません。そこで、そう
いう指導者に集まってもらい、難聴や聾の子どもと一緒に表現の体験をしてもらおう
と、「表現セミナー」を始めました。これももう15年になります。他県からの参加者
も多く見えます。

青木さんは今、全国のろう学校の演劇・表現活動がより活発になることを夢見ていま
す。そのためには、基本的な考え方や指導の方法について教員の交流を図り、《ろう
教育と演劇》に関する全国ネットワークをつくろうと考えています。福島で始めた表
現セミナーも近い将来ほかの地域でも開かれそうです。
参考資料;ビデオ『手話劇入門』(汐文社)
                     (文・日本演劇教育連盟・市橋久生)    
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   Still waters run deep 〜太田久美子さん〜
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“Still waters run deep." 深い川ほど、静かに流れる……。
英語教室を開いている太田久美子(おおた・くみこ)さんを見ていると、中学生のこ
ろ英語辞典で見つけたこの言葉を、ふと思い出します。

宮城県は自宅のある登米郡迫町と仙台市の2ヵ所で、幼児から高齢者までを対象に、
英会話を主とした英語教室を開いていますが、それとは別に、子どもや親子を集めて
「表現あそびの会」を行っています。今では「どちらが本業(本来活動)かわからな
い」と笑うほど、この表現あそびの活動に力を入れています。

仙台市青葉区の木町通り児童館は仙台駅からバスで十数分の、マンションとオフィス
が併存する街中にあります。ここでは月2回、子どもや親子の表現あそびの活動を
行っています。床はフローリング、天井はバレーボールやバドミントンもできそうな
ほど高く、20人ほどが、太田さんのしかけにのって遊びに興じています。

さまざまなコミュニケーション・ゲームやらことばあそびやら。あるいは「集中」の
エクササイズやら身体表現やら。今人気があるのが「だるまさんがころんだ」の変わ
りバージョン。「ぞうさんがころんだ!」と叫べば象の格好でストップモーション。

職員やボランティアの学生もまきこんでの遊びの時間・空間は、開館まもないこの児
童館のこれからの大きな楽しみになりそうです。

表現あそびの会は仙台から新幹線で一駅北の古川市でも展開しています。

太田さんは、東京でOLをしていた頃、英会話をMLS(Model Language
S tudio)に通って演劇形式で学んだことが、その後の活動を開いたと言います。英会
話も要するにコミュニケーション。どのように表現したらきちんと相対した関係や交
流が結べるかが問題です。また、人それぞれ自分なりの表現でOKということを学
び、それまでより積極的になれた、とも言います。

そのように「表現」そのものに関心が向かってからは、日本演劇教育連盟に入り、東
京で開かれる研究会や講座に積極的に参加しては「演技」や「劇あそび」などを体験
し、自分のものにしてきました。また、地元の劇団の公演をはじめ、仙台での舞台に
は足繁く通い、演劇のおもしろさを享受してきました。

そうして、みずから台本を作っては英語教室の発表会で英語劇を上演。

これまでに 『メリーポピンズ 日本編』や『救え!ぼくらの地球−ジェリコキャッツのいんぼ
う』などのレパートリーがあります。観客の理解を助けるため一部に日本語を入れる
などの工夫もある舞台です。

また、アメリカの劇団「サンタモニカ・プレイハウス」を地元に招いて公演を実現し
たこともあります。 これからは、みずから遠くへ出かけて学んだり楽しんだりするだけでなく、地元に講
師を迎えて演劇教育や表現活動のセミナーを開きたいと考えています。

組織に依らず、年月をかけて地道に着実に、志を具体的な形にし、周囲の信頼を集め
てきている太田さん。その姿勢は、“Still waters run deep." と思えるのです。
                        (文・日本演劇教育連盟・市橋久生)    
〓〓ドラマティックな人々!〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
    穏やかにおおらかに 物語がしみわたる       〜木城えほんの郷・森一代さん〜
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九州山地の南東部、宮崎県木城町(きじょう・ちょう)は静かな山里の町です。JR
日豊線の高鍋駅から車で30分、その「木城えほんの郷」に、7月、フィンランドから
劇団がやってきます。ヘヴォシェンケンカ劇団の『セロ弾きのゴーシュ』です。

  「えほんの郷」ですから、絵本に親しむ催しや事業を展開していることは言うまでも
ないのですが、1996年の開設以来、毎年、海外のとてもすてきな演劇を招いて公演
していることが大きな特色です。
▼スウェーデン 国立ウンガリクス劇団  1995年(開設準備期)『小さな紳士のお話』
 1997年『小さな紳士のお話』『ドルフィン』  2001年『マーラのおつかい』  2002年『ふしぎなとびら』
▼デンマーク 人形劇団モネゴイル  1996年『にじのいろ』
▼フィンランド ヘヴォシェンケンカ劇団  1997年『走れモカシン』『雪のお城の王子さま』
 2000年『こうさぎぴょんぴょん』
▼イギリス クルーシブル劇団  1998年『空の高さはどのくらい?』
▼デンマーク リオローサ劇団  1999年『HAIKU』
▼イギリス ヨーク・ロイヤルシアター劇団  2003年『おやすみなさいをいうときに』
どれもこれも、子どももおとなも一緒に楽しめる舞台です。 一度の観客は
100人程度。上演時間も1時間前後という、日本の常識とは異なる
ぜいたくな環境です。しかも、必ず実際の舞台を見てから招聘することを決めるな
ど、見識がうかがえる企画です。

今回の『セロ弾きのゴーシュ』には、舞台美術製作に「えほんの郷」の村長さんで
版画家の黒木郁朝(くろき・いくとも)さんが関わり、フィンランドに何度も飛び、
現地で一緒に創っています。

  この演劇のほかにも、イギリスの演出家を招いて表現ワークショップを行ったり、毎
年秋、新月や満月の夜に自然の命との共生をテーマにする現代の「天の川のコン
サート」を開いたりするなど、さまざまな「見る・聞く・読む・語る・作る・遊ぶ」
魅力的なプログラムが、1年を通して行われています。

こんな「えほんの郷」の事務局長を務めるのが森一代(もり・かずよ)さんです。
森さんは長い間、おやこ劇場や子ども文庫の活動をしてきました。子どもへの深い信
愛の情と豊かな遊びの精神で、自然のなかで育つ子どもたちを励ましています。日常
の暮らしのなかに絵本やお話の楽しさが染み込んでいくように、時間をかけてこの
「えほんの郷」をつくっていきたいと話します。

急いで結果を求めず、100年200年先にまで想いを描く息の長い構想は、たとえば「み
どりのゆりかご銀行」と名付けられた、鳥や虫と共に生きる森づくりなどにも表れて
います。 この「えほんの郷」に流れる時間に身を任せていると、あふれるように想像力が湧き
出てきて、なんだかおだやかな気持ちに浸れるからふしぎです。

森のこだまを聞きに行くもよし、フィンランドのゴーシュに会いに行くもよし、天の
川から流れてくる音楽に誘われるもよし……。きっと心身ともに蘇ることと思いま
す。
                       (文・日本演劇教育連盟・市橋久生)
※木城えほんの郷  URL http://www.mnet.ne.jp/~ehon/  電話 0983-39-1141  fax  0983-39-1180
※ヘヴォシェンケンカ劇団公演『セロ弾きのゴーシュ』  7月17〜22日(20日休演)
※天の川のコンサート  10月9日(出演=坂田明・平野公崇・吉野弘志)  
〓〓ドラマティックな人々!〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
    「学習塾」の演劇祭!〜長谷川宏さん・長谷川摂子さん〜
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ヘーゲルやサルトルの研究者・長谷川宏(はせがわ・ひろし)さん、児童文学の作家
で研究者の長谷川摂子(はせがわ・せつこ)さん。二人は埼玉県所沢市に学習塾「赤
門塾」を開いています。そこの子どもたちが出演する「赤門塾演劇祭」が今年第30回
を迎え、3月下旬の3日間開催されました。

小学2〜5年生による『すばらしいコーラ』(粉川光一作)、中学生の『あまのじゃ
く』(加藤道夫作)、高校生にかつての塾生の大学生と社会人が加わって上演する
『ハムレット』(小田島雄志訳)。プログラムはこの3本立て。同じ出し物を3日間
行う催しでした。
ふだんは塾の教室が、客席数約100のミニ劇場に変っています。老若男女が集まり、
村芝居を見るような楽しさです。間口2間、奥行1間程度の舞台ですが、背景に描か
れた絵や小道具・衣裳の一つ一つが実に丁寧に作られています。

学習塾で演劇という珍しい活動ですが、この絵や衣裳だけでも、その活動への打ち込
み方が表れていて観る者にも伝わってくるようです。

劇は言わばせりふ劇。小・中学生の2本の作品も、名作として高く評価されてきたも
のですが、演技は行間をよく読み取った跡がうかがえるものです。

長谷川さん夫妻は1970年代半ばに塾を開いて以来ずっと演劇活動を取り入れています
が、戯曲を読み解くことを演劇の一部というだけに留めず、ものごとを考える基本の
学習としています。

ハムレットはほぼ3時間に及ぶ大作をまったく飽きもさせずぐいぐい引き付けて見せ
てくれました。せりふが生きているのです。演技にめりはりがあります。半端な気持
ちではこれだけの舞台にならないだろうと思えるような見事さでした。終演後、「ど
こかで演劇をやってるの?」と思わず聞いてしまうほどでした。

さて、長谷川宏さんと言えば、ヘーゲルを平明な日本語に翻訳したり(『精神現象
学』ほか)、『同時代人サルトル』などを著したりしながら、難解な哲学をアカデミ
ズムから解放したとして、その功績はつとに知られています。

また、長谷川摂子さんは、故郷・山陰を舞台に少女の心に浮かぶ生と死の不可思議さ
を描いた近作『人形の旅立ち』が坪田譲二文学賞や椋鳩十児童文学賞を受けました
が、人形劇や読み語りの定番にもなっている絵本『めっきらもっきらどおんどん』の
作者としても知られています。

その二人が開いている塾。ここでは演劇、美術、読書などにも時間を使います。集
まってくる子どもや青年たちとの精神の対等な関係が生み出すようすは、『きのう・
きょう・あす』や『日常の地平から』など、宏さんのエッセイ集からも伺うことがで
きます。

今、学校では劇をやる時間がなかなかとれないのが実情ですが、おとながその場を保
障してやれば、自分たちで工夫して楽しみます。今回も、小・中学生は授業の合間
に、青年たちは1月から毎週日曜日に集まり、稽古を積み、準備をしてきたといいま
す。そして、OB・OG生も裏方の仕事を手伝い、客席にも大勢の人を迎え、演劇を
やる・観るおもしろさを日常の中で体験しています。
こんなふうに演劇が生活の中に、自然に取り入れられているところがすてきですが、
そのためのおとなの役割をあらためて想った催しでした。
                    (文・日本演劇教育連盟・市橋久生)
※長谷川宏 書籍  http://book.asahi.com/search/?exact=on&phase=result&author=%C4%B9%C3%AB%C0%EE%B9%A8
※長谷川摂子 書籍 http://www.junkudo.co.jp/view2.jsp?VIEW=author&ARGS=%92%B7%92J%90%EC%81%40%90%DB%8Eq  
〓〓ドラマティックな人々!〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
    演劇を出版で広める!〜水野久さん〜
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水野久(みずの・ひさし)さんは株式会社晩成書房の代表取締役社長です。晩成書房
は月刊誌『演劇と教育』をはじめ、演劇教育や児童・青少年演劇に関わる図書の出版
社として地位を確立していますが、この4月、新しい雑誌『児童・青少年演劇ジャー
ナルげき』を発行し、いっそう信頼を高めているところです。

晩成書房は石原直也さんによって、1978年に創設されました。東京の中学校教員とし
て演劇教育に力を入れていた石原さんが、出版の面から演劇教育を進めようと一大決
心のもと、教職を辞して起こした会社です。そして、それまでタイプ印刷で自主発行
していた日本演劇教育連盟の『演劇と教育』が、この年の4月号から晩成書房発行と
なったのです。

水野さんは当時は大学生でしたが、授業に出るよりも演劇に熱中し、仲間と劇団をつ
くってあちこち廻っていたといいます。そんな時に石原さんに「ちょっと手伝ってく
れないか」と誘われてしまうのですが、水野さんにとって石原さんは中学校演劇部時
代の「恩師」なのでした。

そうして、編集や挿し絵を描く「ちょっと手伝って」が、とうとう社長のポジション
にまで引きずり込まれてしまったのです。(一般には「上り詰めて」と言うところで
すが、なにしろ出版の中小・零細企業、しかも演劇教育だの児童・青少年演劇だの
と、お金儲けからはとても遠いところの会社ですから。)

それと言うのも、石原社長が1996年3月、会社で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となっ
てしまったからです。あっという間もないできごとでしたから、経営体制の引継ぎに
一刻の猶予も許されません。当然のように水野さんにお鉢が廻っていきました。

それからの水野さん、編集のことしか頭になかったのですから大変。編集の仕事と併
行して「経営」の猛勉強。しかし、いつものさわやかな表情を変えることなく、何ほ
どのこともないかのように社長の仕事もしてしまっていたのです。

晩成書房は創業以来、『演劇と教育』誌のほか、子どもが演じる劇の脚本集の出版で
信頼を高めてきました。脚本集はこれまでに小学生向き(1種類11巻)、中学生向き
(4種類で計22巻)、高校生向き(2種類で計38巻)と多くのものを出しています。

加えて、ふじたあさや、さねとうあきら、岡安伸治など作家個人の脚本集、子ども向
きのミュージカル脚本などがあります。今や「脚本なら晩成書房」と言ってよいで
しょう。 また、兵庫県立こどもの館での劇づくりのドラマを描いた如月小春の名著『八月のこ
どもたち』、学校のみならず公立文化ホールでも貴重な手引きとされている伊藤弘成
『ザ・スタッフ』、国際演劇評論家会議日本センター編集による評論誌『シアター
アーツ』など、演劇と教育を結んで良質の出版物を社会に送り続けています。最新刊
は、没後百年に因んだ牧原純『チェーホフ巡礼』です。

水野さんは編集・出版活動とともに、近頃は演劇教育や児童・青少年演劇についての
講演を依頼されることも増えてきました。ひょんなことから踏み込んだこの世界、本
当に演劇は魔物かもしれません。
                         (文・日本演劇教育連盟・市橋久生)
※晩成書房ホームページ http://www.bansei.co.jp/   
〓〓ドラマティックな人々!〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
    住む町を、発信する町へ!〜堀池高彰さん〜
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 今日では全国にたくさんの演劇フェスティバルが開かれていますが、1991年から9年
間、静岡市で開かれていた「しずおか演劇祭」はたいへんユニークな主旨の催しでし た。

 国連の「国際障害者」の最終10年目を期して始められたもので、「障害者との共
生」を、演劇を通して考えようというものでした。 この催しの事務局を
担当されたのが、堀池高彰(ほりいけ・たかあき)さんです。実
行委員会が組織されましたが、それまで演劇に直接関わっていたのは堀池さんらほん
の数人で、大半は主旨に共鳴して参加された人たちばかりでした。ですから、企画・
準備の当初から試行錯誤の連続だったと言います。

主旨に共鳴し、日程に照らし合わせて参加可能な公演団体・個人を探し求めるところ
から始まりました。結果、毎回1ヵ月近くにも及ぶ祭典に、多彩な劇団や俳優たちが
出演しています。デフ・パペットシアターひとみ座、文学座、日本聾者劇団などのプ
ロの舞台、地元・静岡で活動しているアマチュア劇団。

そして、「主催者劇」と称した公募による市民参加舞台。これには子どもから年配者
まで、また車椅子や盲導犬も一緒に舞台に登場するという、大変興味深いもので、い
つも満席の人気でした。
演劇と福祉の接点を求めて、観る者、演じる者、運営する者、みんながわくわくする
ような「しずおか演劇祭」は、1999年に一応の幕を閉じましたが、堀池さんのその後
は静岡県演劇協会の事務局長として、さらに活動を広く展開されています。
「中学生のためのコミュニケーションワークショップ〜自分がちょっと新鮮になるた
めの演劇体験室〜」「演劇カタログ」などの企画と運営の中心になって、全県に演劇
文化の環境をつくりだそうという活動です。

前者は、2001年、2002年に続いて、今年の8月にも開催されるものです。中学生に演
劇の体験をとおして身近なコミュニケーションを考えてもらいたいという願いで始め られました。

自分を見つめ、自分と他者の関係を見つめ直してほしい。そして、自分が発信するこ
と表現することが、他者からの発信を呼び起こすのだということを実感してほしい。

そんなねらいの合宿です。初対面同士の中学生たちですが、「ずっと心に残る、もっ
たいないくらい楽しかった1泊2日」などの感想を残しています。

後者は、1999年、2001年、2003年と隔年で開催されています。県内のアマチュア劇団
が協力して、演劇(演じる・観る)の裾野を広げようとして始められたもので、3回
目の昨年は10月の2日間に、静岡市のサールナートホールで県内5劇団が公演しまし
た。

そのほか、昨年は「平和のための戦争なんて…朗読と歌による舞台人からのメッセー
ジin静岡…」や県内の音楽家のコンサートへの協力(舞台監督ほか)など、芸術文化
の創造と普及に関することに奔走されています。

なにもかもが東京・大阪など大都市に集中する社会ですが、この静岡の堀池さんのよ
うに自分の住むまちに広く目を配り、自分のまちから発信する人々が全国各地にいる
ことも確かです。そういう人たちの働きにおおいに注目したいと思います。

                              (文・日本演劇教育連盟・市橋久生)

※静岡県演劇協会ホームページ   http://plaza.across.or.jp/~h-taka/index.html
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    演劇でバリアフリー! 〜加藤木鮎子さん〜
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赤ずきんちゃんがやってくる。おばあちゃんにクッキーを届けようと…。道端のきれ
いな花も摘んであげたい。すると、そこへ人間になりすましたおおかみが現われ
て…。おなじみのお話の人形劇。
 
でも、ちょっと違う。赤ずきんちゃんがなんと!車椅子に乗っている。おおかみの耳
には補聴器!!おばあちゃんも耳がとおい。そしておばあちゃん家の入り口は、ス
ロープがついている。このちょっと違った光景を、客席の子どもたちはふしぎそう
に見つめている。
 
『赤ずきんちゃん』の劇が終ると、人形たちが勢揃いしてごあいさつ。知的ハンディ
のある人形のケンちゃんとおかあさんの、ほのぼのとしたユーモラスなやりとりには
温かい笑いも起きる。
 
こんな人形劇を学校に出向いて上演しているのは、埼玉県所沢市の松井公民館を本拠
に活動を展開している「NPO法人バリアフリー・アートの会わーくぽけっと」の人
たち。平日のこの日は、熟年女性たちが出演。なかで、おおかみを演じたのは、この
会の事務局長を務め、中心になっている活動している加藤木鮎子(かとうぎ・あゆ
こ)さん。
 
加藤木さんはもともと地域の子ども劇場で活動していた。しかしいつしか、社会のバ
リアフリー化を実現しよう、そのための基本的な活動を芸術の共同創造におきたい
と、考えるようになってきた。障碍をもつ人であれ、(今は)ないという人であれ、
また、年齢・性別にとらわれないで、さまざまな芸術や表現の楽しさや喜びをいっ
しょに体験しようと、1999年にこの会を発足させた。そして、地元・所沢の演劇人、
歌やダンスの専門家らをまきこみ、ミュージカルづくりを始めたのである。
 
この会では、心身のハンディを「障害」と書き表すことはしない。障碍と表記する。
ここにひとつの見識がある。
 
もうひとつ、急がず焦らず、じっくりと時間をかけワークショップを重ねて、ひとつ
の舞台を創ろうとしている。 ひょうたん楽器の製作と演奏、コミュニティダンス、
アフリカの太鼓と踊り、つぎつぎにおもしろい企画を実行にうつしながら、みんなの
体も心も耕していくのだ。
 
そうして3年に1回、創作ミュージカルを上演する。旗揚げは2001年10月の『宇宙人
伝説』。2回目を今年秋に予定している。
 
加えて始めたのが人形劇。この劇人形7体は、「NHKわかば基金」の助成を受け
て、現代人形劇センターに依頼して作ったもの。本物の人形の魅力もあって、子ども
たちも興味津々といったようす。会の人たちは、人形に託して障碍を語り、バリアフ
リーをともに考えてもらいたいと願っている。

加藤木さんは、「やれることがいっぱいあって楽しい。でも、地域社会のバリアフ
リーが進んで、お役ごめんになればもっとうれしい」と笑う。しなやかな精神があふ
れている。
 
なお、この人形たちが活躍する『赤ずきんちゃん』『山なしもぎ』の上演とワーク
ショップ、それにミュージカル『玉子。わっしょい!』などのプログラムで展開する
「低学年の子どものためのバリアフリーフォーラム」を、3月6・7日に松井公民館
で開催する。是非、足を運んでみてほしい。
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    演劇で世界中と友達に 〜寳田七瀬さん〜
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大学生のとあるミュージカル劇団が国際貢献・国際交流をめざして、去る11月
23日〜12月4日にタイを訪問、バンコクとチェンマイの小学校や福祉施設、
大学で公演を行った。
 
その劇団は、国際基督教大学(ICU)の学生を主として創られた劇団「虹」とい
う。2001年5月に創設された。これまでに、学内はもちろん、ICUのある東京・三
鷹市のほか町田市や墨田区などで公演してきている。「宅配ミュージカル」と名付
け、幼稚園・保育園や各種の社会福祉施設を訪れて、舞台を創っている。
 
劇団の中心になっているのが「寳田七瀬(たからだ・ななせ)さん」。教養学部国際
関係学科の4年生。子どもの頃から演劇に親しみ、見るのもやるのも身体に染み付い
ている。今回のタイ公演50分の作品『七色夏夢(なないろなつゆめ)』も、自分で創
作し、7つの歌の詞も曲も作り、演出した。
 
「将来は国連か国際関係機関で子どもに関わる仕事につきたいと思いながら勉強して
いくうちに、世界の悲劇のほとんどが人間同士の不信感や孤独感にあるという考えに
行き着いた」と言う。

反戦デモにも参加し、渋谷の街でマイクを持ってスピーチもした。しかし、言葉は雑
踏のなかに消えてゆく。この意志は、この思いは、なんとしても形にしたい。彼女に
とってそれはミュージカルという方法だった。そして、「世界に架ける虹の橋プロ
ジェクト」と謳い、タイを訪れたというわけである。
 
全国に学生劇団は数知れず多くある。やがては演劇界で注目されるような若手もここ
から生まれていくのだろう。が、「虹」のような理念を掲げて活動している劇団はあ
まり聞かない。寳田さんたち若者の独創的な発想と、それを実現してしまう行動力は
すごい。
 
企画の社会的な信頼度を高めようと、企画書を作成。在タイ日本大使館、国際交流基
金バンコク支部などから次々に、後援や協力を取り付けてしまう。さらに外務省主管
の「日本ASEAN交流年記念事業」の認定もうける。こうして、日本人学生10人と
現地スタッフとして協力してくれた7名のタイ人によるミュージカル公演の7回が実
現し、2000人の子どもやおとなに見てもらったというわけである。
 
寳田さんは言う。

「私はこの世界を平和にするのは結局のところ友情だと思う。「タイ」という言葉を
聞いたらすぐに脳裏に友人の顔が浮かぶ、そのときした会話を思い出す、その瞬間の
街の匂いや、空の色、そんな些細な記憶をもつことが、世界をより良く変えていく力
になるのだと思う。

なぜなら、私たちは友だちのいる街に爆弾を落としてほしいと願わないから、自分た
ちの思い出の場所をミサイルで焼き尽くしてほしいと願わないから」
 
現地では、大学生など同年代の青年たちと交流する一方、スラムの現状も案内され
た。しかし、そこでは遊んでいる子どもたちの無邪気な姿にふれ、「悲惨さを感じる
というよりも人間のたくましさを知った」とも言う。
 
悲しいかな、世界に戦争は止まない。が、いま希望はもてなくても絶望はするまい。
寳田さんたちのような行動、それを後押しするかのような子どもの姿がある限りは、
と思う。
〓〓ドラマティックな人々!〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
   「子どもの文化権」を保障する条例づくり〜柳田茂樹さん〜
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福岡県朝倉郡杷木町で、10月1日、画期的な条例が施行されました。子どもの
文化権を保障した「杷木町文化芸術振興条例」です。国の文化芸術振興基本法が
制定されたのは2001年12月ですが、それをどのように具体的に生かす施策がとら
れていくかが現在のテーマになっています。

それに関連した動きの一つとして、自治体のなかには条例を制定するところ
があります。今、3000余りある全国の地方自治体のうち、文化芸術の振興に
触れるような条例を定めているところは20程度ですから、まだこれからのこと
ではありますが……。

そんな中で、このたび制定された杷木町の条例は「子どもの文化権の保障」ま
で明記した画期的なものとなっています。一般的には、文化振興条例ですから、
当該自治体の住民として「子ども(あるいは児童青少年)」とことさら言わなく
ても、その対象に含まれるのは当然と思われますから、あえて明記したこの条例
は画期的と言ってよいと思います。

前文と4章14条からなる条例ですが、まず前文には次のように書かれていま
す。「すべての子どもの文化権が保障されるよう、その成長段階に応じて適切に
あそびや文化芸術活動に主体的に参加できるよう配慮し、町、家庭、地域、学
校、民間団体、企業等が連携し、子どもの文化芸術活動の振興を通じ、人格の形
成、心身の豊かな成長を支援することを決意する。」

続いて、第1条(目的)では、「文化芸術振興施策を総合的かつ計画的に推進
し、もって子どもの健康で文化的で豊かな心身の成長及び文化の薫り高く潤いの
ある町づくり」をすすめると謳っています。

さらに第2条(基本理念)8でも、子どもに対する文化的な環境の整備や文化
権の保障について示しています。

ところで、この条例の制定を積極的に推進してきた人たちの中心に、柳田茂樹
(やなぎた・しげき)さんがいます。柳田さんは現在、特定非営利活動法人「九
州沖縄子ども文化芸術協会」の理事長です。

人生の情熱を子ども劇場おやこ劇場運動に傾け、リーダーの一人として、東
京での活動を含め30年に及んでいます。子どもたちにすぐれた舞台芸術の鑑
賞をと、長年「劇場運動」に携わってきましたが、1990年に東京から九州に帰っ
てからは、活動の視野を広げ、地域のすべての子どもたちにとって住みよい
環境をつくること、文化芸術・創造のまちづくりをすすめることに、力を入れて
きました。

柳田さんたちは、熊本県の清和村では山間の廃校を村から借り受けて「子ども
の文化学校」を開設し、演劇や音楽など舞台芸術のフェスティバルを開いたり、
さまざまな生活文化体験の場、世代交流の場をつくったりしてきました。

やがて、その学校が閉鎖された後は、現在の杷木町に移り(2001年)、旧
公民館を「子ども未来館・はき」として再生し、表現と創造の場として日常的に
利用できる場をつくっています。そしてこの間、「子ども・未来・はき宣言」(杷
木町子どもが育つ文化のまちづくり事業4ヶ年計画 2001年)、「杷木国際子
ども芸術フェスティバル」(2001年〜)などを町に提案し、実現してきました。

今回の条例は柳田さんたち住民と行政が、相互に信頼を築いてきた成果と
言えるでしょう。この条例と、制定に至る過程は、子どもの舞台芸術環境を
創っていこうとしている全国の人たちに明るい指標となりそうです。

特定非営利活動法人九州沖縄子ども文化芸術協会ホームページ
 http://www.kodomo-art.org/